岩坂彰の部屋

第15回 日本ネタは楽じゃない

岩坂彰

ちょうどこのコラムの連載を始めた頃でした。ある出版社の編集さんから、このWEBマガジンの編集部経由でご連絡をいただき、出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)の伝記の翻訳を打診されました。出口王仁三郎が明治大正期に興隆した新宗教、大本(おおもと)教の、開祖ではないけれども実質的な教祖に近 い人物である、という程度の知識はありましたが、とくに新宗教に詳しいわけでもない私になぜ? と思いました。それに私自身、自分の本来の興味分野である 精神医学や脳科学に集中したいと思っていた時期でもあり、いったんはお断りしようと考えました。

お話をいただいてから1年ちょっとで本になるというのは、私としては早いほうです。原題はPROPHET MOTIVE。 預言者の動機。あるいは原動力となる預言者か。

しかし、ノンフィクションの翻訳というのは常に未知との遭遇で、はじめからしっかり把握している内容を翻訳することなどめったにありませんし、たと え得意分野でも、翻訳家はけっして本当の専門家ではありません。未知の内容を訳せるかどうかは、何が問題か、どこがポイントかの見当をつけられるだけの基 礎知識を持ち合わせているかどうかです。その編集者の方は、過去の私の翻訳書の内容の多様さから、この雑学ぶりが使えると踏んでくださったようでした。お目に掛かっていろいろお話をしたうえで、結局、一つの条件を出して、お引き受けすることにしました。

その条件というのは、訳し始める前から訳了まで監訳者に相談できる環境を作っていただくこと、というものでした。著者はアメリカの宗教学者で、この 本も、出口王仁三郎の伝記という面はありますが、基本的には新宗教のあり方ついての社会宗教学的研究という性質を持つものでした(20世紀初頭は世界的に 新宗教が勃興した時期で、そういう国際的、一般的視点から、王仁三郎による大本教拡大の諸要素――たとえば当時の新メディアの活用やスピリチュアリズムの 強調など――を取り出していく研究です)。当然監修が必要ですし、おそらく記述の学術的解釈に悩むことも多いと予想されました。どんなテキストでも同じで すけれど、研究書の場合はとくに、学界内の暗黙の了解事項を下敷きにしないと記述の方向が見えないということがよくあります。暗黙の了解事項を調べるの は、具体的な用語を調べるよりもたいへんな労力を要します(要するに関連書籍を読む、ということですが)。もちろんその努力をしなければ翻訳などできはし ないのですが、それでもしょせん素人なのですから、専門家とは基本的な見方が違います。

以前にも書きましたが、 この種の翻訳は専門家と翻訳家の共同作業です。訳者が訳し終えたものを監修者に見ていただくという通常のやり方では、せっかくの監修者の知見が、翻訳時に 活かせないのです。私は常々、翻訳中に監修者、監訳者に質問できる環境を、できる限り作ってもらうようにしていますが、なかなか思い通りにいかないのが現 状です。そこでこの本は、あまり詳しくない内容を専門家と共に仕上げる一つのモデルケースにしてやろう(そしてこのコラムのネタにしてやろう)という下心 をもって引き受けることにしたのでした。

ところが予想に反して、内容解釈では思ったほどの問題は生じませんでした。もちろんいくつか悩んだ箇所はありましたし、監訳の宗教学者、井上順孝先 生も丁寧に対応してくださったので、当初の目論見についてはうまくいったと言うべきなのですが、まったく別の問題が私の前に立ちはだかったのです。それ が、今回のテーマの「日本に関する翻訳」ということです。長い前置きになりました。

日本関連翻訳に特有の問題

IT系ニュースの翻訳をしていたころ、「マックと日本に気をつけよう」というのが合い言葉でした。マックというのはアップルのコンピューターのこと ですが、90年代、ウィンドウズ・ユーザーと違って、「マック使い」たちはとてもこだわりが強かったため、ちょっとした言葉遣いのミスでもすぐに読者から 突っ込みを受けたものです。

そしてもう一つ、要注意なのが日本に関する記事です。外国人が日本をどう見ているかというのは読者の興味を引くネタなのですが、注目度が高いだけ に、そして読者が内容を良く知っているだけに、やはりミスが許されません。たしかに、日本人としてある程度背景を把握できていますから訳しやすい面はある のですが、翻訳作業そのものに意外な手間がかかる側面もあります

たとえば、ローマ字で書かれた人名の漢字表記を調べなくてはいけない、などということはすぐにご想像いただけると思うのですが、固有名詞だけでな く、すべての内容について「オリジナル」の日本語を確認する必要があります。誰かの発言が引用されている場合、その台詞を英語から翻訳するのではなく、元 となった日本語の発言があるかどうかを確認し(ビジネス関連で企業幹部の発言の場合、オリジナルが英語ということもありえます)、元発言が日本語なら、オ リジナルの日本語をそのまま引いてくるか、少なくとも本来の発言に即して訳さなくてはいけません。これを怠ると、二重の翻訳の結果、発言者の本来の意図と ずれてしまうことがあります。

『出口王仁三郎』の場合、著者が記述しているほぼすべての情報は、もともと日本語で書かれていたものです。研究書ですから、引用についてはすべて出 典文献とページ数が明示されており、基本的にはそれを引き写していけばいいわけです。しかし引用として明示されていない地の文であっても、必ず元の日本語 の記述があるはずです。地の文についてはとりあえず「翻訳」で進めていきましたが、引用元の確認作業に入ってみると、その周辺の記述から、この箇所はこの 資料を見て書いているなというのがわかってきます。結局、言葉遣いなどを資料に合わせて修正していくことになります。

ここで意外な落とし穴がありました。私も文献一覧が付くような本の編集に携わったことがあるのでわかるのですが、本文以外の部分というのは、ゲラが 一段階遅れる(つまり本文のゲラが出来てから確認が始まる)ため、出版期日が迫ってくるとどうしても校正漏れが出やすいんですね。引用元資料の巻数、ペー ジ数など、数字だけで1000個以上あるわけですから、いくつかミスが出るのも仕方のないところです。そのいくつかのミス(たとえばp.160がp.60 になってしまっている)のせいで、引用元の確認はけっこう大変な作業になります。いくつかの資料については、引用箇所を見つけるために、ほとんど一冊まる ごと目を通さなければならなくなりました。文献名が間違っていたら、お手上げです。著者に確認しなければなりません。

直接引用されている日本語文献だけで数十冊、それもかなり特殊な文献ですが、幸いなことに自宅近くのキリスト教系大学の図書館は宗教学関連の資料が 充実しており、数日集中的に通うだけでほとんどカバーできました。残りについては、別件で東京に出向いたときに何度か国会図書館に足を運び、最後は大本教 団本部の資料室を利用させてもらいました。担当者のお話によると、数年前、著者自身も何日かその資料室に通ったそうです。要するに、この種の翻訳というの は、著者が調べたことを後追いで調べていく作業なのです。

さらに、もう一つ大きな問題が生じました。著者はもちろんかなり日本語に堪能な研究者ではありますが、何しろ資料は明治期から昭和初期の、独特の文 体で書かれたものです。「小松林の命、瑞の御魂の宿れる肉の宮に入り、其手を借りて太古の神の因縁を詳にす」などという原文は、現代の日本人でも解釈に苦 しむかもしれません。それでも、まあ日本語的感覚を持っていれば、格助詞がなくても、「コマツバヤシノミコトが、……肉の宮に入る」のだということはわか ります。しかしこれが、Komatsubayashi no Mikoto...and Muzu no Mitama..."enter ther palace of flesh and borrow those hands to accurately (tell) of the fate of the ancient gods."という英文になっているのを見ると、日本語に堪能とはいえ、非ネイティブが「小松林の命、瑞の御魂の」を同格に取ってしまうのも、まあ無理も ないかなという気になります。

このケースでは、原典をそのまま引用すればいいのであまり問題になりませんが、全般に著者による原典から英語への「誤訳」の扱いについては、監訳の 井上先生と方針を相談し、事実関係の誤解については事実に即して修正し(この件に関しては「監訳者あとがき」に注記してあります)、解釈上の疑義について は訳注を入れるという方向で臨みました。いずれにせよ、原典との照合をせずにこの本を「翻訳」していたら、おそらく100箇所以上の誤りを指摘されること になったでしょう。

キワモノ翻訳家への道

私自身の自意識としては、けっこう「敬虔な仏教徒」なんですが、一昨年は『聖書大百科』に携わり、昨年はこの『出口王仁三郎』で神道系新宗教に関わ りと、節操もなく仕事をしております。これが掲載されるころにはもう発売されていると思いますが、次に出る『ロボトミスト』も、人によっては躊躇するかも しれない、ロボトミーをしまくった医師の伝記です。なんだか、「キワモノ」翻訳家という烙印を押されそうな気がしています。

しかし私もいちおう仕事は選んでいるつもりで、何でもかんでもお引き受けするわけではありません。リーディングを依頼されて、「これはダメです」と いうレジュメを書いてしまうことがあるくらいです。内容のない本は読む気になれませんし、多少センセーショナルな売り方であっても、筋が通っていればOK です。昔『イエスは仏教徒だった?』という、タイトルだけはトンデモ本のような本を訳したことがありますが、考えてみればイエスが育った時代に「キリスト 教」が存在しなかったのは当たり前なんですね。この本は、紀元前5世紀にインドで起こった仏教が紀元前後の中東のユダヤ教に影響を及ぼしていた可能性を検 証しようとする、わりあいまともな研究書でした(検証に成功しているかどうかは別にして)。

作業の効率からいっても、もっと分野を絞って、興味分野である精神医学、脳科学に集中したいという気持ちはあるのですが、いろいろと話を持ちかけら れると、つい、こういうものができる人はあんまりいないだろうなぁとか、余計なことを考えてしまいます。『出口王仁三郎』を引き受けるかどうか迷っていた ときも、いちおう大きな書店に行って「市場調査」をしてみました。そして、これほど有名な人物の評伝が書棚にまったく置かれていないことに愕然としたので す(教団自身によるものを含め、もちろん伝記はいくつも出ていますが、大書店でも店頭常備の対象にはなっていないようです。庄司薫世代の私は、ここで新宿 紀伊國屋でショーペンハウアーに関する本が極端に少ないことに複雑な感想を抱く薫くんを思い出すわけですが)。読者の需要がないとも言えるし、逆に「穴」 かもしれない……とか、まあ、つまんないことを考えるわけですね。

基本的に、頼まれるとなかなかイヤと言えない性格が災いしている気がしますので、極力自分で本を見つけてこちらから企画を通す、という方向で進めた いと考えています。それでも、こいつにやらせてみたいという企画がありましたら、どうぞご相談ください(ただ、お断りしても恨まないでくださいね)。

(初出 サン・フレア アカデミー WEBマガジン出版翻訳 2009年8月31日号)